押印廃止はどこまで進められるか
新型コロナウィルスの感染拡大に伴いテレワークが推進される中で、書面に押印を必要とする慣行がテレワークの障害になっているとされ、「脱ハンコ」に向けた取組が進められています。
そこで、今回は、押印の法的効力についてご説明し、押印の廃止はどこまで進められるかについて考えてみたいと思います。
1 押印のない契約書は無効か?
「契約書」を交わすときは、契約書に押印をするのが普通だと思いますが、契約書に押印がされていなければ、その契約書による契約は無効になるのでしょうか?
答えは、そうではありません。実は、契約というのは、そもそも契約書を交わさなくても、口頭でも成立するもので、いわゆる「口約束」による契約も有効なのです。
2020年4月から施行されている改正民法では、「契約の成立には、法令に特別の定めがある場合を除き、書面の作成その他の方式を具備することを要しない。」として、そのことが明文化されています(改正民法522条2項)。
それでは、契約書は何のために交わすのかというと、それは、「証拠」を残すためです。「口約束」だけでは、「言った、言わない」の争いになることがありますので、そのような場合に備えて、証拠として契約書を交わすわけです。
2 押印の法的効力
(1)本人の意思が表されたものと推定
民事訴訟法228条4項は、「私文書は、本人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。」と定めています。
これは、民事裁判において裁判所が証拠を評価するときのルールを定めたものです。この規定により、文書に本人の押印(本人の意思に基づく押印)がなされていれば、その文書は本人によって作成されたものであり、文書に記載されている内容は、本人の認識や意思が示されたものと推定されることになります。
例えば、「100万円借りました。」と書かれた書面に甲野太郎という人の記名と押印がされていれば、その文書から、甲野太郎さんは100万円を借りた事実が推定されるということです。
(2)押印の有無だけで決まるわけでない
契約書をはじめ、様々な文書で押印が求められてきたのは、この民事訴訟法の規定が要因の一つになっていると思われますが、この規定に関しては、以下のことに留意する必要があります。
- この「押印」による推定がなされるためには、上記の例で言えば、「甲野」という押印があれば何でもよいわけではなく、甲野太郎さんが実際に持っている印が押されたものであることが必要です。単に押印があるだけでは、甲野さんが「それは自分の印ではない」と否定したときには、「押印」による推定はされません。押印に関して、実印による押印と印鑑登録証明書を求められることがあるのはそのためです。
- 「推定」は、他の証拠によって覆されることがありえます。実印による押印と印鑑登録証明書があっても、例えば、本人と同居している親族などが、本人に無断で勝手に本人の実印と印鑑登録カードを使い、本人を保証人にしてお金を借りたという場合、そのことが何らかの方法で立証されれば、本人に保証人としての責任を負わせることはできません。
- 文書が真正に成立したこと、すなわち、その文書が本人の意思に基づいて作成されたことを立証する方法は、押印だけに限られません。民事訴訟法の規定は、「本人の署名又は押印があるときは」となっており、押印がなくても、本人の署名があれば、文書の真正な成立は推定されることになります。
3 押印廃止を検討する際の観点
以上のような押印の法的効力を踏まえますと、押印の廃止を検討する際には、二つの観点から考える必要があるように思います。
(1)一つは、その文書が本人によって作成されたことを証拠として残しておく必要があるか、ということです。
例えば、相手が自分に対して何かを約束したことを示す文書のように、その文書に示されている意思が確かに相手本人によってなされたことを証拠として残すような場合は、その文書に相手の押印を得ておくことは意義があると考えられます。
これに対して、例えば、請求書のような文書を例に考えると、請求を受ける側にとっては、請求書に請求者の押印がなくても、別に困ることはないと考えられます。他方、請求をする側としては、請求をしたということを証拠として残すべき場合はありますが、請求書そのものは相手に送られるものであり、請求書に押印をしたとしても、請求したことの証拠を手元に残せるわけではありません。
(2)もう一つは、その文書が本人の意思に基づいて作成されたことを、押印がなくとも他の何らかの方法で確認できるかどうか、ということです。
最近は、電子メールや、ラインなどのSNSでのメッセージの内容が裁判の証拠として提出されることもあります(電子メールなどは「文書」ではありませんが、裁判の証拠としては、「文書」に準じて扱われます。)。メールアドレスやSNSのアカウントなどは、犯罪に用いられる場合などは別として、通常はその開設者や、開設者から使用を認められた人によって使用されているものであり、誰が開設者であるかはプロバイダー事業者等において特定されているため、実際のメールアドレスの開設者が、そのメールアドレスは自分のものではないと否定することは困難と考えられます。
また、当事者間で継続的なやり取りがなされてきているような場合は、メールやメッセージの内容が本人によって書かれたものであるかどうかは、それまでのやり取りの内容や一連の経緯などから明らかにできることも多いと思われます。
インターネット上でのやり取りに関しては、今回は紙幅の関係で詳しくはご紹介できませんが、2000年に電子署名法という法律が制定されていて、契約書等の文書ファイルに同法が定める「電子署名」が本人によってなされているときは、その文書ファイルは真正に成立したものと推定する、と定められています(電子署名法3条)。
(3)そうした観点から考えますと、法的には、これまで実印と印鑑登録証明書が必要とされてきたような文書は別として、それ以外の文書は、よく考えれば押印は必ずしも必要でなかったり、他の方法で代替できる場合がかなり多いのではないかと思われます。