1 江戸時代から民亊裁判制度に国は冷淡
日本では、江戸時代から国は民亊裁判の制度に熱心でありませんでした。そもそも今あるような裁判所はなく、行政庁である奉行所で、刑事裁判のかたわら民亊事件も受け付けるという程度のものでした。民亊裁判をするには、事前の町村役人による話し合いが必要で、裁判になっても、できるだけ和解(「内済」と呼ばれました)で終わらせるようにしました。
明治政府は、西洋の近代訴訟制度を導入しましたが、裁判件数が増えましたので、その軽減を図るため、裁判所が和解を勧告する「勧解」という制度を設けました。事実上、勧解を経ないと裁判はできないことにしました。その結果、民亊事件の約8割は勧解で処理されました。
この勧解の制度は、民亊訴訟法が1891(明治24)年に施行されたときに廃止されました。それから約30年が経った大正時代に各種の「調停」制度が次々と設けられ、調停の制度は今も続いています。
最高裁は、2019年、民亊訴訟のIT化の法改正の審議のなかで、審理期間を6カ月に限定した簡易な「特別訴訟手続」と、「和解に代わる決定」という制度を提案しました。いずれの提案についても国民から多くの反対が出て、和解に代わる決定の提案はボツになりましたが、特別訴訟手続は修正をされたうえで「法定審理期間訴訟手続」として制度化されました。最高裁の発想は、民亊事件は簡単な手続や和解でできるだけ処理するのでよいとするもので、江戸時代の「内済」や明治時代の「勧解」の発想と似たところがあります。
2 明治期の勧解の制度
「勧解」について書いた林真貴子近畿大学教授の「近代日本における勧解・調停―紛争解決手続の歴史と機能」(大阪大学出版会、2022年発行)を読みました。主にこの本に基づいて、勧解は何のためにできたかなどをご説明します。
勧解とは、区裁判所(今の簡易裁判所に相当)において裁判官(判事補が担当しました)が和解を勧める制度です。一方当事者の申立により手続が開始し、合意が成立したり、弁済がされたり、あるいは合意ができないときは、終了します。本人出頭が原則で、無資格の代人のみならず代言人も制限され、裁判官が直接に当事者を説諭し、和解に導こうとしました(34頁)。
3 勧解制度が設けられた理由
明治政府は、近代訴訟制度を導入することにして、裁判所を次々と増設しました。裁判は1884(明治17)年まで無料で、裁判件数は増え、東京裁判所の事件数は、1875(明治8)年は2年前の1873年に比べて約30倍にも増えました(林23頁)
裁判が急激に増えたので、裁判所の負担を軽減するため、政府は1875(明治8)年9月、「東京裁判支庁管轄区分並ニ取扱仮規則」を制定し、勧解制度を設けました(28頁、34頁、309頁)。勧解で処理できる事件は、それで解決しようとし、区裁判所を設置し、判事補によって処理できるようにしました(27頁)。
4 実質的には勧解前置であった(勧解をしないと訴訟ができない)
勧解前置の明文規定はありませんでしたが、司法省は1876年に「民亊ノ詞訟ハ可成丈ケ一応区裁判所ノ勧解ヲ乞フ可シ」という諭達(41頁)を出して、できるだけ勧解だけで処理しようとしました。(56頁)
1881(明治14)年には太政官第83号布告を出して、商事に関わり急速を要する事件と諸官庁に対する紛争は除外することとして、それ以外の紛争については勧解前置を強制する運用を進め、さらに1883(明治16)年の茨城県伺に対する司法省指令では「必ず勧解を経へきものとす」としましたので、全国的に勧解前置とみえる運用が確立したとされています(56頁、85頁)。
裁判をするには先に勧解しないといけませんので、当然、勧解の件数は多く、1883(明治16)年の勧解の年間の件数は100万件を超えたといいます(9頁)。全民亊事件の約8割が勧解で処理されたと書かれています(41頁)。訴訟や勧解が有料になった後の1890(明治23)年の統計でも、裁判で処理された件数は8万1395件、勧解で処理された件数は39万1072件でした(142頁)。
勧解制度は、当時フランスなどにもあったようで、それが参考にされた可能性があります(25頁)。フランスの勧解前置主義は1949年に廃止されたようです(86頁注2)。
5 増える民亊裁判の対策―勧解と訴訟の有料化
明治政府は、増える民亊裁判の対策として、事実上の勧解前置としましたが、勧解前置だけでは裁判件数を減らすことは難しかったようです(160頁)。そこで、政府は、訴訟件数自体を減少させることを目的として、裁判の手数料を徴収することにして、1884(明治17)年に太政官第5号布告「民亊訴訟用印紙規則」を制定しました。この制定の目的は、訴訟をいかに減らすかという1点にあったとされています(160頁)。
訴訟の手数料は、訴訟額に応じて高いことにされ、勧解は一律20銭とされました。別の文献で、有料化により、訴訟件数は大きく減ったと聞いています。
参事院、元老院では、「乱訴健訟の風習」をなくすとか、裁判所は俗に三百代言といわれる無頼漢の教育所になっているなどの議員の意見が多かったようですが、外国の司法制度に詳しい箕作麟祥は、人民が訴訟を起こすのはその正当な権利であると述べ、反対しました(160頁)。
日本では、今も民亊裁判に高い額の手数料をとっています。しかし、フランスは国民には裁判を受ける権利があることを踏まえて無料です。アメリカでも連邦地裁は一律120ドル(日本円で約1万5000円)です。日本は今も裁判を利用する権利の実現が遅れています。
6 民亊訴訟法の制定により勧解は廃止
勧解制度は、民亊訴訟法の1891(明治24)年の施行により廃止されました。司法省は単独法を制定して勧解制度を残そうとしましたが、法制局長官で外国法に詳しい井上毅が、訴訟法で勧解を廃したのは、その理由が無いと判断したためであるとして反対しました。勧解制度は単独法として残ることもなく、廃止されました(157頁)。
7 大正期に調停制度
その後、1911年に勧解制度を再び設ける法案が国会議員から帝国議会に提出され、1912年には紛議仲裁法案が提出されました(259頁)。明治期の勧解や、日本の伝統、欧米にも仲裁制度があることなども理由としていたようです(262頁)。提案された手続は、後で成立した調停制度とは異なりますが、政府が調停制度の検討を始める契機となったようです(261頁)。なお、日本は、統治した台湾で、行政庁による民亊争訟調停という制度を1897(明治30)年に設けていたようです(256頁)。
1922(大正11)年に「借地借家調停法」が制定され、以後、小作調停法、商事調停法、労働争議調停法、金銭債務臨時調停法、人事調停法などが制定されました(牧英正ら「日本法制史」433頁)。ただ、事件の種類が限定され、施行地域も特定されていました(林256頁)。
1932(昭和7)年の金銭債務臨時調停法には強制調停の制度ができました。強制調停は戦後も規定が残され、後に最高裁で違憲判決が出ました。
戦争が始まり、1942年(昭和17)年に制定された戦時民亊特別法は、それまでの各種調停とは全く異なり、民亊紛争一般について調停を認めるものでした。戦時下における簡易な紛争解決手続として導入されました(林308頁)。
戦後の1951(昭和26)年に民亊調停法が制定され、戦時民亊特別法のように民亊事件全般を対象とする調停制度が設けられました。民亊調停法には強制調停に代えて、「調停に代わる決定」(17条決定)ができました。
8 勧解制度についての理解
ここでは、林氏の前記著書以外の文献もご紹介します。
江戸時代、民事訴訟は、なるべく当事者間で解決し、裁判機関の手を煩わせることがないようにすべきとされていました(園尾隆司「民事訴訟・執行・破産の近現代史」122頁、同旨出口雄一ほか「概説日本法制史」303頁、414頁、同旨石井良助「日本法制史概要」169頁)。
明治になっても、民亊裁判については、「江戸時代以来の例にならい、和解が奨励され、和解を勧奨すること(勧解)が裁判官の重要任務であった。」(石井良助「日本法制史概要」218頁)とされています。
「これ(勧解)はフランス民亊訴訟法に規定された勧解前置主義の導入であるが、日本の伝統的な内済制度、すなわちもともと訴権の観念がなく、名望家の介入による和解解決及び司直の裁判は権力者の思し召しという伝統的法意識と、フランス革命の遺産である訴訟以前の民衆的和解解決の原則とが偶然にも一致する点があったため導入された。」、「その実情は、解部(ときべ)意識が抜けきれない裁判官による高圧的強制調停であった。」(勝田有恒、森征一、山内進編著「概説西洋法制史」339頁)。
なお、調停制度も日本独特の面があります。すなわち、日本では、訴訟として取り上げないようにするためや訴訟件数が増えた対策として、「調停」制度を広範囲に導入してきたのですが、イタリアのカペレッティ教授は、1978年に出版された本で、「これまでのところ西洋諸国は、民事上すべての請求類型を対象とする包括的な調停制度を設けるには至っていない。」と書いています(M.カペレッティ&B.ガース著「正義へのアクセスー権利実効化のための法政策と司法改革―」90頁)。
林氏も、これまでの多くの研究の理解は、「勧解は、内済を引き継いだ制度で自由民権運動とともに芽生えつつあった人民の権利主張、訴訟提起の願いを勧解前置主義によって抑圧した制度である」というものであったことを紹介しています(林6頁)。
私も、人民の裁判を受ける権利(裁判を求める権利を含む)という視点で見たとき、勧解は、国の都合、すなわち裁判所の負担軽減のために設けられたもので、その点を見落としてはならないと思います。
日本では江戸時代まで人民に裁判を求める権利を認めた近代訴訟制度がありませんでした。明治期に導入して、それから約130年が経つのですから、もう民亊訴訟制度は世界標準のレベルで実現していてもよいと思うのですが、未だに裁判所の人的物的基盤や証拠・資料の収集手続や法律扶助を含む司法関係の予算は先進国に比べて格段に劣っています。むしろ最近、国(裁判所)は、これまで少しずつ続けていた裁判官の増員をやめ、民事事件は和解あるいは簡単な手続で処理して、かつての江戸時代のように、なるべく裁判機関の手を煩わせないという施策を志向しているようにみえます。日本では、訴訟制度についての歴史が浅いことを踏まえて、民亊訴訟の基盤、制度、手続等で整備すべきことを確認し、めざす方向を誤らないようにする必要があると思います。(弁護士 松森 彬)